正解は自分の中のものでいい。

思い

設計に関しての「セカンドオピニオン」を求められることがたまにある。
軽く意見を求められる程度の場合もあるのだけれど、がっつり相談されることもある。
それってどちらにも失礼な話なのだけど、実に珍しくない。
もっと失礼なことになると、(おそらく)どこかで間取りを計画してもらい、
「これで計画を進めてほしい」と持ち掛けられる。
これは、著作権にかかわる。
最近はそんなことも公認されてきたので少なくはなってきたけど、
ちょっと前までは意外と多かった。
なので自己防衛のために「図面は契約を交わすまでお渡しできないんです。」と伝える。
伝えたとたん、施主との信頼関係に距離が生まれる(笑)

倫理という言葉はあまり好きではないのだけれど、
法律は常に後からついてくるので、社会形成にはある程度の倫理は必要だ。
人間としての倫理で信頼関係を確保できればいいのだけれど、
そこは各個人の感覚もあいまいで線引きは難しい。
人の判断に「正しい」「間違っている」とは、はあまり決めたくないのだけど、
自分の中の「正しさ」は確保していないと、信頼関係も築けない。

情報があふれる社会の中で、人は答えを急ぐ傾向にある。
自分ももれなくその一人で、すぐに検索してわかった気になる。
熟慮が足りないので、うわべの理解にとどまってすぐに忘れてるなぁ~と
最近つくづく思う。
昨日書いたブログの内容でさえ、怪しい。先週のブログならなおさら。
見返して、自分でびっくりすることもある。それはそれで楽しいんだけど。
たま~に、これ消そうかな~、読まれたくないな~と思ったり。(まだ消してないけど)

答えを急ぐのは時間が足りないためなのか?
時間の概念も最近よく目にするようになった。時間は定量的に測れないとか?
また、わかった気になって偉そうに書こうとしてしまって、いったんやめた。
もっと、いろんな意見を取り入れて、自分なりに解釈して自分なりの答えを見つけてから
アウトプットしよう。

答えを急いで、周りを頼りすぎる傾向も強く感じる。
簡単に信じられるものがあるのは、とてもありがたいことだ。
自由がなくても、指示されて動いていればいいだけの方が、
人生はイージーなのかもしれない。(個人差はあるにしろ。)
自由がなくてもいいと感じる人には、答えのない今の時代は酷だろう。
誰かに答えを言ってほしいから依存的になってしまう。
指示に「従う」と自分で決めた、そんな自分にも気が付かず、
誰かのせいにして愚痴や悪口を発言する。
不満があるのなら、「じゃぁ、どうしよう?」と思った方が心は楽だ。と思うのだけど。
これも、個人の特性の差があるのだろうな。

何が正しいかは、自分が決める。

人から見たら、間違いやバカな選択でも自分が幸せであることが大切。
そう思えるようになったのは、年を重ねたおかげなのかもしれない。

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