平和ボケでなにが悪いのか?

思い

よく日本人は平和ボケだ。なっていない!みたいなことを言う人がいる。
じゃあどうすればいいのか?と思う。
傭兵になって戦えばいいのか?愛する人を守るためにと銘打って、軍事力を高めれるよう政府にうったいかければいいのか?もっと危機感をもって攻撃的な発言を多発するべきなのか?
「日本人は平和ボケだから~」って簡単に言う人は、じゃ、自分はどんな日本だと満足なのかな?どんな国民が正しいのか?その答えを発信してもらいたい。立候補もしてもらえたらなおいいのと感じている。

ボケているのかボケていないのかは表向きには表れてこない気がする。戦略家はそれほど手の内を見せないだろう。交渉はオープンマインドが大切だとも聞くが、リスクに対する対策も練る必要がある。外交の席で表立って感情をあらわにするのは、きっと国内受けはいいのかもしれない。しかし世界情勢をかき乱すことになる。近年多くみられた政治戦略だった。
昨今、クーデターや戦争の勃発は国内の不満因子を味方にしている。いや、味方にするために起こしているのかもしれない。そうならないために、個々人の考え方が重要だと痛烈に感じた。戦争は誰もが嫌なことなのに、どうしてそうなるのか?冷静に自分や大衆の心理を考える。誰か一人がおこしているのではない。多くのみんなの方向がそこに向き始めると、政治も動いてしまうのだと。独裁政権であろうと、一人の力は知れている。大衆がそっちに動いた現れだと感じている。

こないだイワシの群れを見た。一匹がトリッキーな動きをすると群れの方向が一気に変わる。人間もこんな風に向きが変わっていくことがあるのだと思う。ルソーが、ただ、キリスト教について思想を深めたくて発した問いから、人権の考えや啓蒙思想にまで発展してフランス革命が起きてしまった。いま、トリッキーに動く人間がいれば、情勢は変わるかもしれないがどっちに向かうかわからない。では、どうして皆が破滅の方へ向かうのか?破滅とは思っていないからだと思う。個々人においては、それは防御という名の正義なのかもしれない。ストレスからの脱却なのかもしれない。何からの防御なのか?ストレスは何なのか?不満や恐れ、ではないかと思っている。明るい未来を感じられないから現実を変えようとしている。変えるための手段として、力しか考えつかない状況なのだろう。強い自国は安心できる。いつだってそうなんだと。

哲学が発展する時代は、考える余裕がある平和な時期だと聞く。文化もそうだ。平和な時代に、個々人が自分に何を問うて多様性をどれだけ受け入れられるか?が、持続可能な平和には必要なのだと思う。平和ボケはあるいみ大切。あいまいさを受け入れる余裕が必要。敵でも見方でもない他を認め、過剰に怖がらず身を守るすべを考えなくてはいけない。自分個人だけの為に考えるのではなく、もっと広い視野で。

コメント

タイトルとURLをコピーしました