どこかのお役所で問題になっているとニュースで聞いた。
市長がののしるような名称(うんこ)で紹介した、いや言っていない。というものだ。
ニュースにするのもいかがなものかと思う内容だ。
日本全国のハラスメントで悩む方に向けてのエールになれば、という考えかもしれない。
しかし、刺さる単語を使うことで視聴率を上げるためか、バズるためなのかもしれない。
ハラスメントの問題はさておき、
日常においても、よく「言ったのにな~」と思う場面がよくある。
私はメモ魔だからあまりないけど逆に「言いましたよね?」と投げかけられることもあるだろう。
私の場合は、言われたことを違う認識をもって受け取っていることが多くある。それ以前の問題(笑)
へんな思い込みで、勝手にわかった気になっている。変な癖があるみたいだと自覚している。
私が言ったことに対して違うことが起きているとしたら、
それは、伝わっていないということで私の責任だ。
こっちを向いていない人にボールを投げたところで、受け取ってもらえるわけがない。
ボールなげる側にも責任がある。
言われていることを間違って受け取っていたとしたら、
自分が確認を怠ったということで私の責任だ。
受け取ったボールをどう処理すべきか、確認してから行動すべきだ。
このような偏見は、ある程度勉強ができた人に多いような気がする。
(私が勉強できたとはいいがたいけど)
理解が早い分、わかった気になってしまう。はやとちりってやつ。
とある工務店の方と話していて、お客さまとの認識のずれに悩まされていた。
それ以来、議事録を書いて複写して渡すようにしているという。
「その書類つくりに時間がかかってしまって」という。
議事録つくりの欠点はもう一つある。それを作ることで人間関係に距離ができることだ。
記憶力に自信がないわたしは、ひたすらメモする。
その、メモをする行動もいかがなものか?と自分でも思っている。
「あなたが言いましたよね!」と突きつけるための道具に使っていると相手に伝わるかもしれない。
ただ単に、忘れっぽいからなんだけど。
会話の流れの中に、本質が見つかるかもしれない。とも思っているのだけど、
その本質は、勝手な思い込みだったりもする。
結局、メモの中に本質を見出そうとせずに何度も直接対話すべきなのだろう。
これまた時間がかかる(笑)
人の気持ちは常に変わるもの。
さっき言ったときは確かに「○○でお願いします。」と決心していたのに、
すこし後には、「あ、やっぱり△△で。」となることはままある。自分でもよくある。
相手の中にはもう「○○」で認識されて固まっていて、「△△」が上書きされずに誤認される。
そして、あの時ちゃんと言いましたよね!と言っても、お互いに記憶の錯誤が発生してもしかたない。
人間にはバグがあるから、それゆえ人間らしい。
「△△」にした理由をきちんと説明して、○○よりいい点を伝えて上書きできたか確認までして、
文字に残してやっと「言った!」と言えるかも。
説明は何事も「Why」からすべきなのだろう。
冒頭のお役所の問題は、
そういうとらえ方をされるような上司だったのであろう。
「そんなこと言っていない」の前に、そういう日常があって、そういう風にとらえられたのだろう。
と、勝手に想像している。
なので「言ってない」の発言があまりに幼稚に聞こえた。問題はそこじゃない気がする(笑)
コメント