意識か感情か

人生

最近、おかざき真里さんの漫画「阿吽」を読んだ。最澄と空海の話だ。おかざきさんが解釈した二人のもの語たり。

読んでいて感じたのが、真理を追い求めているのは同じなのだけど、根本的に違う二人。最長は自我(意識)で世界を律するために、空海は感情を鎮めるために真理を追い求める、というようにえがかれていた。

歴史上、最澄は晩年はあまり報われずに死んでしまったとも聞く。死んだあとも、大切にしていた比叡山を織田信長に焼かれてしまう。死んでからも、なお浮かばれない。

それとは逆に空海はいまだフューチャーされもてはやされている。二人の差は何か?なぜ人は高野山に魅了されるのか?

動機の見せ方の違いなのかもしれない。

最澄は、世のため人のために正しさを解こうとしたのに対して、空海は、知りたいから学んだ!というイメージである。まるで「海賊王に俺はなる!」と言っているルフィーのようでもある。端から見ると自発的な方が怪しさを感じない。

最澄の「皆を幸せにするために正しくあろう!」というのはとても立派なのだけど、人々の心には届かない。正しいことを当たり前に言われても、心にはなかなか届かないものだ。

きっと隣に最澄がいたら、話は別だ。天才でイケメンで男前、物静かで親切。うん、言うことない(笑)。ただ、少しだけ不器用だっただけなのかもしれない。と、私の勝手な解釈。

最澄は自分の意識をコントロールしようとし、自分は成功したけれど、弟子たちには難しかったのだろう。

逆に空海は感情の赴くままを認め、生き物として内発的に生きることも良しとした。(なのだと思う)人間も獣なのだ。そのことを理解しておかないといけない。ごもっともなのだけど忘れがち。自分の感情も相手の感情も否定しなくていい。そう、勝手に解釈して、私も空海に一票投じたい。

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