実は昨年母を亡くした。

人生

実は昨年母を亡くした。
先日、一回忌は済ませたのだが昨日が命日で、
これも、何らかの一区切りとしよう!と、
久々にブログと書くことにした。
再開を母の命日にかこつけて先延ばしにしていただけなのだけれど(笑)

母が死ぬことなど少しも考えずに生きてきたように思う。
あけっぴろげで、天真爛漫、機関銃トークが武器だけど、なぜか人には憎まれない。
そんな人たらしの母に癌が見つかったのは、コロナ騒動の最中だった。

検査は通常通り行われた。検査結果を一緒に聞くために帰省したのだけれど、
かかっていた病院で運悪くクラスターが発生。
当日に病院からの連絡が入り、検査結果は実家で電話越しに聞くことになった。
その後、入院して詳しい検査をするはずだったが、医療崩壊で病院の手配ができず、
検査も治療も遅れてしまった。

それでもその後、通院しながらの抗がん剤治療を始めた。
一人暮らしをしていた母。
私は実家から遠く離れているので、姉や親せき、古くからの母の友人などに任せるほかなかった。
抗がん剤の副作用もつらかったようで、
いつも笑顔だった母から、表情が薄れていった。

冬の間のつらい治療を乗り越え、春には東京の息子の結婚式に参加した。
やはり、少し辛そうではあったがそれでも桜を見たり孫たちと美術館を見に行ったりと、楽しそうだった。
甥っ子の斬新なベストを高額で買い取り(笑)意気揚々と、その斬新なベストで美術館巡りを楽しんでいた。

そのころから、のどの調子がおかしかった。
息をすると音がするようになっていた。
志村けんさん演ずる「ひとみばあさん」のようだと、姉が笑っていた。

6月3日が母の誕生日。
その日に検査と治療をかねて入院することになっていた。
人生初の病気入院。そして最後の入院となってしまった。
のどの状態が思っていたより悪く、即手術が必要という。
病院からの電話は姉にも弟にもつながらず、遠く離れた私につながった。
先生の話を聞いたが、それしか手立てがないというような口ぶりだった。
「のどに穴をあけて呼吸を楽にするが、しばらく話せなくなる」という。
「いずれ話せるようになる」ともいうが、いやな予感がしてならなかった。
母は手術する気満々だ。本人がやる気なのに、反対もできない。
そのまま了承した。

今でもその日のことが悔やまれてならない。
いったん母を説得して保留にしてもらい、医者である義兄に相談させてもらえばよかった。
その後、その、のどの管のせいで一度も退院できないことになるとは思ってもみなかった。
コロナのせいで会いたい人にも会えず、そして、あの機関銃トークという武器も奪われ、
すべての生きがいを奪われてしまった母だった。

後で出てきた母の手記。
先生とのやり取りに使っていたと思われるノートには、
先生への嘆願がつづられていた。「もう死にたい」と、何度も。

入院中、母の病院での様子が、全くわからなくなった。
電話での会話はできないし、ラインも音声入力をしていたので既読スルー。
連絡は病院側からの特別なことのみとなってしまった。
生きる気力もなくしてしまっているのではないかと心配しているなか、思い出した!
友人がその病院で働いていいることを!
といっても、今は医療関係ではなく秘書的な仕事。
無理を承知で、様子を見に行くようお願いしてみたら、快諾してくれた(笑)
コロナの最中、大変ではないか?と聞いたところ、
白衣を着て女医に成りすまして病室に見舞ってくれたという。
それを聞いて、思わず涙が出てしまった。母ともどもうれしかった。
(その友人がこのブログを見ていないことを祈る(笑))

秋には「これが最後になるだろう」と病院から1泊の外泊の許可が出た。
医師である義兄の管理のもとでの許可だ。
あまり話すことはできなくても、管を押さえて息を止めれば声が出るのだとか。
一生懸命話したり、ジェスチャーしたり、とても楽しそうだった。
たまに呼吸も忘れるらしく、そのことも冗談にして笑っていた。
本当に外の人に触れるのはそれが最後となってしまった。

会いに行こうにも病院は閉ざされ、機械音痴の母にはスマホでテレビ電話やzoomもままならず、
病院スタッフの不親切さをいぶかった時期もあった。
4月になり、主治医が義兄の同級生ということもあり、
無理を言って姉がPCとアイパットを病院に持ち込んで会いに行ってくれ、
Zoomで孫たちと面会を果たすことができた。
息をするのも辛そうで、それでも画面に向かって笑顔を作っていた。
アイパットを胸に抱え込んだので、一画面は何も映らずじまいだったけど、その姿は画面の孫を抱きかかえているようでもあった。

会えるかどうかわからないままGWに入ると同時に実家に向かった。
姉が病院に、「妹が遠くから会いに来ているから何とか会わせてほしい」と掛け合ってくれた。
なんだかんだ理由をつけて、会いに行った。
病院に行くなり先生からは、「楽にさせる薬を考えてほしい」といきなり言われた。
つまり、死期を相談された。(そう受け取った)
会うなりそんなこと言われても、気持ちが混乱したし、兄弟ですぐに答えを出せる話でもない。
2~3回、なんだかんだ理由をつけては無理やり(っぽく)会いに行った。
一度、家に帰る予定でいたけれど、病院の近くにいてほしいと主治医に言われた。
とうとう、楽に眠れる薬をお願いした。
その日も、母は食べたいものを告げて、
ニコっと笑った。
もう、ペンを持つ力も残っていなかった。

次の日、食べたがっていた巨砲を買って病院の駐車場に着いたときに、
電話が鳴った。

母を連れて病院を後にしたとたん、空模様が変わりヒョウが降り始めた。
今まで何人かの人を見送ってきたけれど、人がなくなるとなぜか天候が豹変する。
何らかの「気」が天候も左右しているのではないかと思ってしまう。
バタフライ効果のように。

晩年、母とは軽口をたたきながらも気の置けない間柄になっていた。
母への尊敬というより、慈しみの思いが増していたようにも思うが、
死期を目の前にしても、笑顔を見せて心配かけまいとする姿は、
最高にスペシャルな尊敬に値する。
マネできないな~、完敗です。と思った。

夜に書くブログは感情的になって、睡眠によくないと聞いたけど、その通りです。
きっと、後で読み返すと、ラブレター並みに恥ずかしいかも。と思いつつ、公開します。
でも、すぐ、非公開にするかも(笑)


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