審美眼

思い

死ぬまでに行ってみたいところがある。
ジェームズ・タレルが作成している、 ローデンクレーターだ。

ローデンクレーター


実は不可能に近い願いだ。しかし、公表してしまえば覚悟もできてそっちに努力もでき、実現に近づいていける気がするので、ここで発表してみた(笑)
ジェームス・タレルは近代美術家で、直島や金沢にも作品がある。セレブに引っ張りだこの超人気の芸術家だ。なので、つまり大金持ち。
彼が誰かの依頼ではなく自身の作品のために火山の中に作成しているのが ローデンクレーターで、今はまだ公開されていない。ネット画像でしか見たことがないのだけれど、それは誰もが認める美だと感じている。しかも体験できる美だ。

美については日々思うところがある。美に対する感覚は皆同じなのだろうか?ということだ。
おなじみ「お宝なんでも鑑定団」をたまに見る。テレビ画面からだけの判断だけれど、見事にいつも的を外す(笑)私が偽物と感じるものはたいてい本物だ(笑)。なので、私の審美眼はとても怪しい。
それでも年を負うごとに美しいと感じられること(もの)が増えてきたように感じる。
故郷は大雪連峰を眺めることができるのだけれど、若いころにはそれらを美しいと感じなかった。そこにあるのが当たり前に感じていたせいもあるのだろう。
先日、帰省した際、雪解け前の山の連なりと青空のコントラストをとても美しく感じた。そのことを地元の親戚に言うと、その人も「年を負うごとにそう感じるようになった」と言っていた。
おそらくだが、自分の命の尽きるのを感じることで見方も変わるのだと思っている。あと何度、この景色を見ることができるのか?すべてのモノへの希少価値が年々上がってくるためなのかもしれない。

サンフランシスコの美術館で、なんでもない眼鏡を床に置いたらどうなるか?と実験した人がいるらしい。結果、現代アートと勘違いして写真を撮ったりいろんな方向から眺めたり、人だかりができたらしい。人々はただの眼鏡を作品と思い、何かしらの意味づけを考えようとした。
現代アートでは、デュシャンの泉(男性用便器を倒してサインしたもの)は有名で、何が美なのかを問いかけた先駆けだという。「美とは何か?」を考えること自体が芸術なのかもしれない。

千利休は竹で茶尺や花入れは作ったものの、自ら創作することはあまりしなかった。現代で言う総合プロデューサーにあたるとも言われている。モノは作らなくても、自然美を中心とした茶の湯という世界観を作ったのだ。愛でる世界だけではなく、体験する美でもある。

美とは何か?芸術とは何か?
答えは簡単ではない。
岡本太郎氏は、心を動かす、感動させるものが美だという。
現代芸術家のデュシャンは問を投げかける芸術という概念を創造した。
千利休は美を自然観と融合させ感覚で感じる「茶道」をつくった。
他にも「美」には多くの概念が存在すると思っている。美とは変幻自在なのかもしれない。であれば、審美眼も自由でいいのだと思う。

物の価値は物にではなくて、評価する人の価値に依存しているかもしれない。
誰に評価してもらうかで、価値が変わる。自分の価値を、外にゆだねる。芸術家のあり方はとても受動的だ。しかし、その在り方自体を変革しようという動きも見受けられる。
いつの世も、皆、もがいているのかもしれない。その「もがき」自体が芸術なのかもしれない。

誰かの審美眼に引っ張られない(影響されない)自分の感覚も大切にしたいと思っている。
たとえそれが偽物だっていいじゃないか!自分が好きならば。自分の感覚を愛そうっと。

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