攻めと守りと

人生

年を負うごとに保守的になる。
失敗してからの回復力に自信がなくなるためか、または多くの失敗や不幸を目の当たりにしてきたためか。そのどちらでもあるような気がする。
若いころは、未来は明るく輝かしく見えていたのに、年を経ると、物事はそう簡単ではなくエネルギーも必要であり自分があと何年命が継続して、その後の責任をだれが負うのか?ということを考えずにいられなくなる。若いとなんなく挑戦できたであろうことに、ちょっと考えてから行動する、ワンクッションが生れてしまう。と、私調べの、狭い狭い世相感だけど(笑)

私も例にもれず、年齢を重ね「攻めと守りの狭間に」生きている。
若いころは、あまり考えもせずに感情の赴くままに決断するたちで、失敗ばかりの人生だった気がする(笑)。それは、それで楽しいのだけど、身近な人にいろんな迷惑もかけてきているのだろう。
今さら、多くの人を巻き込むことが怖く感じたりもする。樹木希林さんが一人で仕事していたことには、とても共感できる。誰かの人生まで背負いきれない。と言っていた。
しかし、人はいつまでたっても未熟で一人でできることは限られている。樹木希林さんの例にしても、彼女のかたわらで学びたいと思う人は多くいただろうと思う。それで不幸になろうとも、それは樹木希林さんの責任ではなく、それを受け止める側の問題。だとも思う。
自分がもし役者なら、そう感じて勉強したいと思っただろう。その役作りもさながら、仕事のやり方、生き方をありのままに見てみたいと。

一人で働くと、ジャッジも早く少しの無理も勝手に自分に強いることができる気楽さがある。
その分誰の責任にもできないのだけど。
しかし、自分の周りの「人間性あるな~」と思う人は、人とのコミュニケーションができている。
人を巻き込んで、同士として一緒に活動できている。各々の思いは違うのかもしれないが、その人と活動することが楽しいのだろう。結果も残さなければいけないのだろうが、そんな風に活動して失敗したとしても、だれの責任にもせずに次へ行こうするような、エネルギーがある。見習いたい。
組織を作るとどうしても、じれったく感じたりストレスを感じたりする。人間性のあると感じる人はそれをも凌駕している(笑)すべて、「自分事」なのだ。人と一緒に働いてもすべて「自分事」。主体的だ。

よく社長が「経営者的な視点をもて!」と社員に説くと、ブラック企業あつかいされると聞く。
人には主体的であることが幸せな人がいる反面、受動的、従属的でいることが幸せな人もいて、「私(社長)のように幸せになるために主体的になりなさい!」というのは勝手な要求なのだろう。
また、成功体験を幸せと感じる人もいれば、ほどほどに生きていて幸せな人もいる。ほどほどの日常に幸せを見いだせる人。道端にさく小さな花を見つけて幸せを感じる、そんな幸せも認めないといけない。

これは、DNAに組み込まれているものとも聞く。
道端の花に幸せを感じる人に「君は勝てるんだ。リングに上がれ!」というのも酷な話だ(笑)。
リングで戦う人にも、道端で咲く花に幸せを感じる瞬間があるだろうから簡単にカテゴライズはできないのだろうけど。いや、逆にリングに上がったからこそ道端に咲く花の可憐さを感じることができるのかもしれないな。
言いたいことが右往左往するが、言いたいのは自分の感じる幸せが隣の人の感じる幸せではない、ということだ。愚痴を言いながらも小さな幸せを大切にする人生、きっとそれはそれでいいのだろう。

だけど、リングに上がらないと見えない世界があるんだろうな。とも思う。
ボコボコにされてみじめにあざ笑われるかもしれない。そんな思いも感じてみたい。Mです(笑)
と、ただの好奇心でいろんなことに手を出してしまうのはやはり個人の特質で人に強いることはできない、とも思っている。

わが子を見て思う。
一人はほどほどに生きてい幸せな生活、もう一人は努力家である程度は努力で成し遂げた。
しかし大人になって逆転。
ほどほどの子が現在リングに上でがってがんばっていて、努力家は公務員というほどほどの道を選んだ。なんとも皮肉なものだ。
ほどほどの子は急に危機感を感じたのかもしれない。努力家の子は努力だけではかなわないことを学んだのかもしれない。真相はわからないけれど、DNAもあてにならないということを私は学んだ(笑)
人は内的であれ外的であれ、いつでも変わるようだ。諸行無常ですな。

攻めて成功あるいは失敗するか、守りで現状維持あるいは衰退するか。
きっと攻めてないと現状維持ができないと思ってもいる。
世の中の変化についていかないとね。老いたとしても。

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