光と影

先日、お茶会に参加する機会をいただいた。
本来、正会員じゃないと参加できないという、キチンとしたものだ。
キチンと、おちゃに携わる方々の中で恐縮しながら一服いただいた。

おもてなしについて、いろいろお伺いした。
道具のしつらえも大変由緒正しいもので、季節や文脈などとても考えられた志向の品々。
もう、きっと二度と愛でることのできないものばかりだろう。
貴重な機会を得て、とても感謝している。

でも、ちょっとがっかりしたのは会場だった。
それは、清潔でお茶会ができるつくりではあったのだけど、明かりが明るすぎるように感じた。
蛍光灯で均一的な照明だった。
そんな風に思ったのは私だけだろうか?ならば、職業病なのかもしれない。

日本家屋はそもそも光と影を考えられた作りだ。
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」でもさんざん言われているのだけれど、明るいだけの家は面白くない。
茶室も、光と影をうまく取り入れたものが私は好きだ。
以前ある茶事の時、前半と後半では窓の外のしつらえを変えていただき感動した。光の入り方で茶室の風景がかわる。これぞ、日本のさりげない「おもてなし」なんだなと。自分も見習わなければ。
利休の茶室は質素であるのに対し、秀吉の茶室は金箔がはりめぐらされて豪華絢爛ではある。
しかし、この金箔、暗がりの中で少しの明かりに身を置くとぼんやり幻想的になるという。
いつか、体験してみたい。

日本は雨が多く、夏は蒸し暑くなる。
雨を避けるために、庇を伸ばし建物にかかる雨を避け、
夏は風通しを良くするために、オープンにできるようになっている。
日差しが入る明るい部屋は「ハレの場」で来客との対峙の場。
奥は、少し薄暗く「ケの場」として日常的に使われた。
薄暗くすることで、見えずらくしプライバシーを保つようにしていたとも聞く。

夏の日本家屋はそこに入るだけでひんやりと感じた。
土壁、泥で瓦を葺いた屋根は熱を伝える時間を遅くする。
なので、熱さのピークを遅らせる。特に午前中はひんやり感じられるのだ。
きっと薄暗さも一役かっているような気がする。


夏の日差しは、直線的で拡散しないため曇りの日より晴れの日の方が、奥の座敷は暗くなる。
江戸時代の奉行所のお白洲は、裁判の潔白さを象徴するためのモノだったと聞くが、
お寺などの白い玉砂利は光を室内に取り込むためのものだった。
また、古来の和室は北向きに窓を設け、植物の葉にあたった光も取り込んだそうだ。
南に開口部を開くようになったのは、利休の時代からのようだ。
外光の変化を楽しむためだと聞いている。
また、障子紙は直線的な光を拡散させ、部屋の奥まで光を届ける。
開けたり閉めたりで、部屋の雰囲気は一気に変わる。これも、大切な日本の大切な文化だ。

と日本のことばかり語った。
谷崎潤一郎は海外のことをよく言っていないけど、海外だって光と影を巧妙に扱っていたのだと思う。
海外は石の文化。それこそ、光の当たらない部屋もおおくあったのではないだろうか?
その証拠に、フェルメールやレンブランドの描く光の使い方はとても巧妙だ。
フェルメールは外の光が窓から入るさまを、レンブランドは人物にスポットライトが当たっているように描かれている。
光と影は、人や物を立体的にし、ものの手触りをも表現する。
そして表情を与えドラマチックに演出する。
ベルサイユ宮殿も豪華賢覧であるが、夜は今より薄暗く幻想的に映る世界だったのではないか?と勝手に想像している。
光と影の感受性は、世界共通なのだろう。

逆に現在の日本の建物は、とても明るすぎる。
明かりが均一にあたるので、足元も安全、衛生的。今の日本の有様がよく現れている(笑)
でも、もう少し文化や感性に立ち返ってもいいような気がするのは私だけだろうか?

ところで、谷崎潤一郎は「厠」(かわや)に固執している。(ようにみうけられる)
現在も男性は「便所」にこだわりを持つ人が多い。
これは、日本の文化なのかな?
今度海外からきた人にあったら、聞いてみよ(笑)

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